文の練習 

文について練習しながら考えるためにブログを書きます。 書かれることの大半はフィクションです。

秩序

 はじめに

 

 人が寄り集まって生活を営み始めると、はじめは種々の混乱や予期せぬことへの対応に追われるのだろうが、やがて生活の反復と模倣によって彼らの生活に秩序が生まれる。ところが、やがて秩序にとって自らの勘定に入れ難い存在が秩序そのものの中から生まれでてくる。少なくとも教会から見れば、ブルジョワもそうしたものの一つであった。ところで、B.グレトゥイゼンの論文、『教会とブルジョワジー』は主に十八世紀におけるキリスト教会によるブルジョワへの批判とその反駁資料からブルジョワという特定の自意識を持つ社会層を描き出すことを試みている。以下、いくつかの本文中の引用とグレトゥイゼン本人による記述から、ブルジョワ精神を考える。

 

 i) 教会は何故ブルジョワの中に強欲を見いだしたか。                                                       

 

 「利己心と蓄財欲がこれら(商人、銀行家、徴税請負人、事業家を指す)の魂」(トマサン神父)

 「誰もが自分と家族の生計に必要なものしか入手し、所有しないなら世界中を見渡しても貧民などないはずである」(不明)

 と、教会はまずブルジョワの強欲を責めた。責めの的は、事業の末にブルジョワが得た報酬であり、誰の目にも明らかだった物的な結果、財産を強欲の徴としたようだ。しかし、

 「もちろん神学者は商業を絶やすまいとして、妥当な限界はないものかと探った」(グレトゥイゼン)

  事業そのものを禁止する訳にも行かなかった。しかし、財を得過ぎているように見えたのだ。しかし、それではブルジョワ達は、何と比べて財が超過だというのだろうか。実際、ブルジョワは怠惰のままに財を得ているのではないとうことは、神父達の目にも明らかだった。

  「やせるほどの勉強、身をさいなむ心労、食事や休息にまでついてまわるひっきりなしの緊張。疲れをいやす暇もない。面倒なことの起こらない日は一日もなく、成功は不安なしには訪れない。[…]大体の場合、よほどうるさく言われなければ顔も見せず、混沌たる事業の中に埋没している。こんなに多忙な隠者がどこにいよう。こんなに疲れる隠遁生活がどこの僧院にあろう。[…]これ以上きつい生活はできないし、これ以上平穏ならざる毎日もない。」(クロワゼ神父)

  今の感覚で言えば、純粋な働き者である彼が、一定以上の報酬を得るのは当然に思われる。もちろん、現代においても正当な報酬というものを考慮するのは容易ではなかろうが。ところで、これほどに働くブルジョワを教会は「役立たず」と判じる。一体どうして?

  「残念ながら、何もない人の生活と少なくとも同程度に役立たずであろう。当人になんの得にもならないはずだから。」(同上)

  つまり、批判の拠り所は、彼らが他人のために働いたに過ぎないということにある。これは蓄財の批判と相反せぬか。しかし、神父のうちでは同様に罪である。なぜなら、労働する当人が祝福され天国へ召されることが第一義的に重要であり、自らの分の祝福を犠牲にして、多大の時間を労働に捧げる人は神と己との関係を軽視していることになるからだ。彼の労働は祝福に必要な行為の限度を超えているのだ。さらに、そうした活動を経て必要以上の財を成すことは二重に悪であるように感ぜられるのだ。しかし、必要以上とは!ここでもまた、一人の個人にとっての必要分という想定が、今度は労働の結果の限度を画定しているように見える。教会秩序の中の個人主義とでもいうべきだろうか。秩序の中ではいつでも、労働においても蓄財においても個人の分というのが範囲を決められているのだ。分を弁えざる者、いかに労働しようとも救いには預からず、労働の結果が目に余れば強欲と看做される。

 ii) ブルジョワの確信はどこにあったか

  「神は聖書で富に対する軽蔑をたえず鼓舞され、恐怖をそそる比喩で富のいまわしい結果を示され、商業的な大事業の第一の動因たる貪欲さこそすべての悪の源であると宣言されているのだから、巨万の富をためて商業を国家の栄光のために流通させるという目的で人間をお作りになったのではない。神が個人と社会を創造されたのはご自身の栄光のためだ」(プリジャン)

  教会は神の栄光を引きながら、事業家の貪欲さを断罪している。貪欲さが事業家の原動力の一つ足るのは認めねばならないが、貪欲そのものは非難されるべきだろうか。非難の根拠はまたしても、教会が予め想定する個人主義であるようだ。莫大の富を見て、それが人間よりも尊重されているように見えたのだろう。金を殖やすことに心血注ぐ人を、人より金を目的に行動する強盗に見立てる。しかし、

  「進取の気象に富むあの商人は、金を儲けながら、自分の国の繁栄を増した、神の栄光のために働いたとは思わないだろうか。国の繁栄をもたらすのは商業の精神だ、と彼はくり返すはずである。」(グレトゥイゼン)

  自分の住むごく限られた周囲を眺めているだけで良いというのでは、事業は拡大しない。教会においては統一的な風景であったはずのヨーロッパ世界のうちに、当時の事業家の目は国境を見ていたのである。神の栄光を預かるのも、祝福を受けるのも第一に国、という考えが芽生えつつあった。だから、自然、国境を行き交う通商が生まれる。彼にとっての隣人とはよその国の商売相手である。『金利の論理』にもまた、その意義が述べられる。

  「[…]貿易も産業もない一部の地方の状態と、商業の精神が農業を花咲かせるあらゆる技術を鼓舞している別の地方の状態とをくらべてみるだけでよい。一方にはなかば未開な習俗と、全般的な無気力、才能の無視、万人の困窮とその結果たる種々の悪徳、きわめて軽い租税ときわめて困難なその取り立てが見られよう。もう一方には驚異的な活力と、日に日に増加する人口、市民のあらゆる階級にみなぎる開化した習俗、右でも左でも資本をどんどん増やしてゆく産業、国家の必要のためにたえず新たに提供される莫大な援助と、時には言われる前に財布の紐がほどかれるほどの易々たる徴税が見られよう」(金利の論理、1780)

  これは結果から見たブルジョワの活動意義だが、ここでも国家やその枠の中におる人々がどれほど豊かになったのかということが、価値の指標になっており、教会の倫理を規定する個人主義と対置される。さて、国家を富ますことが、ブルジョワの栄光だったとしてもそれは抽象的な概念だったのであろうか。ただ一人のブルジョワが国家全体を豊かにしたということはないのであり、彼自身の働きと国の栄光を直接結びつけるのは飛躍がある。彼の栄光を喝采したのは、彼の事業によって決定される領域の内側にいた人々である。

  「私の言う商人この身分は、もっとも古い貴族の家柄をも高尚な感情をも排除しませんがーとは、識見、天分、事業において他にまさり、資産によって国富をふやす人のことです。[…]この国の物資やマニュファクチュアの製品を満載したこの人の船は、遠い異国の産物をさがしにゆきます。この人に仕え、この人に情報をもたらし、この人の代わりに執行する代理人は世界のいたるところにいます。この人の飛脚はヨーロッパ中にその命令をもってゆき、流通手形に記載されたこの人の名前は、資産を運びまきちらして、それを循環させ増殖させます。この人は命令し、推薦し、保護します」(マルセイユ文芸アカデミー、ギュイ会長の演説, 1755)

  これをブルジョワ自身の正確な言葉としてはとらえられぬが、少なくとも、フランスの大商業地マルセイユの文芸家代表をして語られる言葉には、当時の肯定的なブルジョワ観を伝えている。いわく、大ブルジョワは自らの名において、「命令し、推薦し、保護する」という。文芸会長がこう表現するとき、彼は商人を古来の王に喩えてはいないか。王の目、王の耳と古くから言ったものだが、彼の支配する地には彼があたかも遍在しているようである。それは、単に統制をもってなされるのではなく、彼の命令を受け取る人々の「旦那さん」への称賛と喝采によって実現する。別の名を信用と言うが、ブルジョワの署名を担った手紙や手形は、彼が現前せずとも命令と信用を形作る。命令と信用は、雇用された人々の仕事あるいは取引の実現によって機能し、その実在性が確かめられる。その都度、事業に関わる多数者によって確認される権威を、栄光と言う。エコノミーという言葉が、オイコノミアとして語られていたとき、それは家政を意味していた。家政の長は、家に遍く命令を行き渡らせ、同時に家の運営によって得られた資源を配分したが、彼にその権限が与えられていたのは彼の支配する家から承認を得ていたからである。この、単方向でない関係の上に家政の長はいた。ブルジョワが、事業の長であることの栄光を拡大して捉え、国の家政を担っていたと確信していても不思議はない。つまり、新しく生まれた国の方も大方彼らの働きを支持していたのである。

 iii) 秩序の外

 ブルジョワは秩序の外側にいた、とはどういうことか。

 「周知のように、神は各人の天職を『永遠の昔から按配され』、或る者を僧院に、他の者を俗世に、この人を教会に、あの人を結婚に、或る者を法服に、他の者を軍隊に、この人を名誉ある職務に、あの人を商いや手を使う職業、と予定された」(メスポリエ)

  職業召命観のことである。教会が知っている、つまり既存の職業に収まって、分をわきまえて仕事をする人間は、神の調和に逸脱しない。

  「だが、近代のこの大商人は神の召命など受けないように見えるかもしれない。彼がたずさわる職業は、神の摂理がきめた秩序の外のどこか別な場所に彼を位置づけるように見えるかもしれない」(グレトゥイゼン)

  それは、ブルジョワたちが、職をまたぎ、階級を越えて上昇する存在だからだ。自分の収まっているべき場所に見向きもしない。そんなことをしている暇はない。そして、自分たちが、旧い秩序の外にいると自覚した彼らを定義づけるのは彼ら自身である。

  「大商人はさまざまな価値を設けるだろう。立派に事業しているものと成功しなかった者を区別するであろう」(同上)

  「一定の暮らし方を自分に課し、新たな秩序を生み出し、自分の道徳を作りあげ、自分自身とこの世で自分が果たす使命の理想、自分固有の理想を形成するだろう」(同上)

  ブルジョワを先の見えない未来へと押しやる動きは、摂理が決めた狭い範囲内に生活を限定するべきだと説教する教会への、不断の挑戦に他ならない。旧い秩序の外で自己を確定せんと欲する意志が、彼らをブルジョワ足らしめる。それは野心か。ここから少し長い引用になるがご寛容頂きたい。

  「ブルジョワは、人類の壊敗の昔ながらのしるしを新しい形で宿す単なる野心家、罪の子にすぎないのか。いや、そうではない。少なくとも当人はそうであることを知らないだろう。ブルジョワは野心的だが、まったくやましいところはない。義務として野心的なのだ。彼の掟は前進すること。日々これ前進することである。だから、このブルジョワの生活ではあらゆることがきわめて規則的に営まれる。一時の華々しい成功を収める鉄面皮の宮廷人のような往時の野心家の面影はどこにもない。[…]これが罪人なのか。堕落した男なのか。自尊心の誘惑に負ける腐敗した人間なのか。しかし、ブルジョワが偉くなろうとするのは、成り上がりたがるのは、子どもたちのためではないのか。これが最大の論拠である。ブルジョワは子どもの前で自分自身を正当化する。富の誘惑を云々されると、神の摂理が富者の手に置いた救いの手段を十分に生かさないとか、施しをあまりしないとか責めたてられると、彼は子どもに訴える。[…]私には子どもがあります。子どものためには全財産が必要なのです。[…]ブルジョワは一家の父であり、自分の責任を自覚している。子どもに将来祝福されるには、存命中も隣人に敬われるには、自分が慎重でなければならない。彼に落ち度があることをどうやって証明するのか。罪人の悔恨をどうやって呼び覚すのか。ブルジョワは家族のために働いている。自己の階級のために働いている。やましいことはないではないか。」(同上)

  ブルジョワは、秩序の外に放り出された。だから、彼を祝福するのはもはや寄与の神ではない。彼の子どもであり、彼の家族である。会社であり、社会である。やがて、彼にそれらを与えた神に信仰を捧げるかもしれないが、その逆はない。教会の批判した、ブルジョワの個人主義的貪欲は、実は家族に似た拡大してゆく同心円の中心であったので、批判を完了することができなかったのではないか。つまり、ブルジョワだけ批判しても、ブルジョワの活動のほとんどを取りこぼす。ブルジョワもまた、自らの栄光を喝采するべきは足下から広がる我が領域と心得ていた。

 

  最後に、学問の世界があまりに無遠慮にやってのける後味の悪い結末の描写を、それでも私が請け負うのは、未来への期待のためである。上述のように、旧い秩序と戦って、おおまかに言って勝利したと見えるブルジョワも、残りの全ての人がブルジョワになれるわけではないと考えていた。彼らの道徳や規律は、その他大勢の人々には適用されない。代わりに、宗教と秩序を与えていればよいと結論したのである。それが、ブルジョワの家政を自ずから限定してしまうことを彼らは知らなかったのだろう。

 

  参考文献:『ブルジョワ精神の起源』,Bグレトゥイゼン 野沢協 訳 、『王国と栄光』,ジョルジュ・アガンベン 高桑和巳 訳