文の練習 

文について練習しながら考えるためにブログを書きます。 書かれることの大半はフィクションです。

或る経済人の遺姿

 

 むかし故郷にありし頃は、犂とり簣にないて、霖雨には小麦の蝶に化せんを怖れ、旱りにはまた苗代水の足らざるをかこちけるが、世のみだれゆくさまをなげきて、負気なくも国家の憂をおのが憂とせしより住みなれし草の庵を立出で、西の都に赴きし(雨夜譚、はしがきより)

 

 私感ながら、今の世は窮屈だと思います。思ったことができぬから窮屈なのではありません。蜻蛉のように飛べたらと考え、それが出来ないからと言って息苦しくなりはしないです。窮屈は、本音を言う人があまりに少ないから、互いに目配せし過ぎているから、面白いことがあまり起きそうに無いなという所感から来ています。それで、自然、ミーハーの魂から幕末維新に目が行きました。とはいえ、きったはったの緊迫を得て見たいのとは違います。そういうのは映画の方が面白いです。私が昔へ戻って知りたいのは、本音をぶちまけて出世し、近代日本の屋台骨を作り上げた男の生き様でございます。例えば、渋沢栄一という人が居ました。彼が希有なのは、最後まで分を弁えないで世の為に生きよう努めようとしたところでしょう。農と商の分を越え出、士に成り、官になり、いくつも会社を起こし、ひとつの場所に留まりませんでした。さらに、

 

 ゆずりおく このまごころの ひとつをば なからむのちの かたみともみよ(同上)

 

 と、雨夜譚のはしがきの末に置かれた短歌に、渋沢はあの本の意義を込めました。こう言って良ければ、あれは彼の遺書で、時代をも越え出て、我々に語りかけるように見えます。世のため人のためにとてなししわざにはあらず、と謙遜しますが、それは嘘です。著書、「論語と算盤」では世のため人のため、千慮を尽くして節介を焼いた人ですから。そこで私は、例の窮屈を取り払う為に、最も遠慮のなかった男の遺書を気晴らしに読もうとするのです。

 

  

 巻之一より

 

 渋沢は裕福な農商の家に生まれました。父親は、婿入りした人間で家への義務を並より感じていた為か、渋沢を厳しく育てました。六歳の自分から句読を教え、『大学』から『中庸』、『論語』まで読ませ、さらに塾へやり、読書の修行をさせました。なぜ、農家商人の父親が渋沢に勉強させたのでしょう。それが通例だったのか、彼の人格から来るものだったかわかりません。ともかく渋沢の通った塾は、世間に新しく、文の暗記暗唱より、「数多の書物を通読させて、自然と働きをつけて、ここはかくいう意味、ここはこう言う義理と、自身に考えが生ずるに任せるという風」の方針を採りました。斯くして、「本を読みながら歩行いて、ふと、溝の中へ落ちて、春着の衣装を大層汚して、大きに母親に叱られ」てしまうほどの読書好きが生まれたのであります。しかし、家業についてはなはだ厳重の父親は、十五になった渋沢に向かって、「儒者になる所存でもあるまい」、「モウ今までのように昼夜読書三昧では困る、農業にも、商売にも、心を用いなければ、一家の益にはたたぬ」と言いました。その農業というのは、麦を作ったり、藍を作ったり、養蚕業をするもので、商売というのは、自家製はもちろん、他人の作ったものまで買入れて、藍玉に製造して、信州や上州、秩父の紺屋に送って、追々に勘定を取る、掛売商売でありました。渋沢は父の不在に、彼の祖父について見習いをするよう命ぜられましたが、耄碌の爺に随行するのを恥ずかしがり、買い付けを一人でやらせてもらいました。その様子が面白いので、そのまま書き写します。

 

 「いくらかの金子を祖父から受取って、それを胴巻に入れて、着物の八ツ口の処から腹に結び、祖父に別れて横瀬村から新野村にいって、藍を買いに来たと吹聴したけれども、その頃、自分はまだ鳶口髷の子供だから、自から人が軽侮して信用しなかった。しかし自分はこれまで、幾度も父に随行して、藍の買入れ方を見て居たから、これは肥料がすくないとか、これは肥料が〆粕でないとか、あるいは乾燥が悪いからいけないとか、茎の切り方がわるいとか、下葉が枯って居るとか、まるで医者の病を診察するようなことをいうのを聞き覚えて居て、口真似ぐらいはなんでもないゆえ、一々弁じた処が、人々が大きに驚いて、妙ナ子供が来たといって、かえって珍しがって相手になったから、ついに新野村ばかりで、都合二十一軒の藍をことごとく買ってしまった。」

 

 それから、熱心に農業と藍の商売を勉強する父親に感化されて、渋沢も共にその事に力を入れて、一方の助けをするようになりました。藍の買付では父を見事に真似て上手くいった渋沢ですが、江戸へ出て、実家の硯箱を新調して帰って来た時には、その高価なのを責められ、「自分の意に任せて取扱うようでは、つまりドンナ事をするかも知れぬという掛念が強い」と注意されました。この時渋沢は父親の方正厳格に、慈愛が薄いと感じるも、回顧するに当たっては自分の心得違いと反省しています。また、渋沢の性格の一端を知るに、病の姉のもとへ祈祷しに来た修験道に向かって、年号の質問をして間違えさせ、満座を白けさせるということをやってのけたことが書いてありますが、道理を重んじ、大胆にも迷信を排する人のようです。

 さて、渋沢が十七の頃には、家は一角の財産をなして、質取り金貸しもしていました。彼の村にも、領主がおり、御用達との名目で婚姻等の際には金を借りるということがありました。ある時渋沢の家でも五百両を引受けねばならぬということがあって、父の代わりに御用伺いに遣られた渋沢は、そこで身分の不平等を実感いたします。つまり、代官の言い渡した調達をその場で引受けずに一度持ち帰ると申し出ると、代官は嘲笑半分に、「殊に御用を達せば、追々身柄も好くなり、世間に対して名目にもなることだ」、「緩慢な事は承知せぬ」と脅し、「直に承知したという挨拶をしろ」と渋沢に迫ったのでした。結局、渋沢は折れず、「貴様はつまらぬ男だ」と嘲弄を受けながらも話を持ち帰ります。その道半ば、「その時に始めて幕府の政事が善くないという感じ」が起こるのです。その訳も、渋沢の直接の言葉がよく説明すると思うので、まま、引用します。少し長いですが悪しからず。

 

 「何故かというに、人はその財産を銘々自身で守るべきは勿論の事、また人の世に交際する上には、智愚賢不肖によりて、尊卑の差別も生ずべきはずである。ゆえに賢者は人に尊敬せられ、不肖者は卑下せらるるのは必然のことで、いやしくもやや智能を有する限りは、誰にも会得の出来る極めてみやすい道理である。しかるに今岡部の領主は、当然の年貢を取りながら返済もせぬ金員を、用金とか何とか名を付けて取り立てて、その上、人を軽蔑嘲弄して、貸したものでも取返すように、命示するという道理は、そもそもどこから生じたものであろうか、察するに彼の代官は、言語といい動作といい、決して知識のある人とは思われぬ。かような人物が人を軽蔑するというのは、一体すべて官を世々するという、徳川政治から左様になったので、もはや弊政の極度に陥ったのである、と思ったについて、深く考えて見ると、自分もこの先き今日のように百姓をして居ると、彼らのような、いわばまず虫螻同様の、智恵分別もないものに軽蔑せられねばならぬ、さてさて残念千万なことである。これは何でも百姓は罷めたい、余りといえば馬鹿馬鹿しい話だ、ということが心に浮かんだのは、すなわちこの代官所から帰りがけに、自問自答した話で、今でも能く覚えて居ります。」

 

 また、帰って父に申し付けても、宥めすかされるので、渋沢の念虜は胸中にますます蟠るのでした。

 さて、ペルリが来航して、いよいよ世の中が騒がしくなって来たに合わせて、国家談義というのも増えました。渋沢の中で、「百姓というものは、実に馬鹿馬鹿しいという意念」が増長し、また、平生彼が誦読した歴史諸書の千古の英雄豪傑が自分の友達のような念慮が生じて来たということです。私も、時勢に合わせて、渋沢が師であり、友であるような心持ちでいるのですが、万人に共通の心情でしょうか。一方で、商売の方もしっかりやっていたようで、藍の作人にむけて、買付の側から懸賞を行って質の向上を奨励するといった工夫しました。しかしながら、やはり世間に遊学交流したい渋沢の思いは募るばかりで、家の商事を粗略にしては困るという父の反対を押し切って江戸へ出ました。海保の塾あるいは撃剣家の塾に入って、才能・芸術ある者を友達味方としました。彼が二十三の頃には、坂下門外の変を機に志士の捕縛が相次ぎました。渋沢は、その様子を知ろうと、読書の師である尾高の弟、長七郎を京都に偵察に遣りました。京都の様子を知り、世間の騒ぎを聞くにつけ次第に、尊王攘夷の心が芽生えて、このときは頭で考えたものに過ぎなかったが、塾の人らなどと話をするうちに、いよいよ彼は本気になりました。攘夷となれば、大罪人であるので、家に迷惑をかけぬよう、父親に勘当を申し出ることにしました。渋沢の言い分は、天下が乱れれば、農民といって安居してられない、乱世に処する覚悟があるということだが、父親は、分限を越えて非望を企てるよりも、根が農民に生まれたのだからどこまでも本文を守れと言う。身分の位置を転ずるのは了見違いと制止する。しかし渋沢も退かず、国が陸沈するような場合になったと見ても、己れは農民だから微しも関係せぬといって傍観して居られましょうか、何事も知らぬならばそれまでのこと、いやしくも知った以上は、国民の本分として安心は出来ぬことであろうと思われます、と反論する。もはや、百姓町人と武家の差別はない、仰せの分限を守るのは当然至極だが、人世の事は常に処すると変に処するとの間において、自から差別を生じて同一に論定することは出来ますまい、などと問答をくり返したようです。もはや、渋沢と彼の父親との間には隔世の感がはっきりしていました。渋沢は変化に応じんとする心に嘘がつけません。最後には父親の方が折れて、勝手にしろといい、ただし、勘当はしない、「この上はモウ決してその方の挙動にはかれこれ是非は言わぬから、この末の行為に能く注意して、あくまでも道理を踏み違えずに一片の誠意を貫いて仁人義士といわれることが出来たなら、その死生と幸不幸とにかかわらず、おれはこれを満足に思う」と訓戒を与えました。この言葉は、ずっと渋沢の耳の底にあり、話をするに落涙の種であったほど心に響いたようでした。

 暇乞いをした渋沢は江戸へ出て同士に交わり、さあ攘夷を起こそうと気持ちを高めるが、百姓一揆と同じに見なされる、無謀だから見送るべしと長七郎が身を挺して反対するので、はじめは気持ちが収まらなかったが、次第に冷静を弁えて、企てを止めることにしました。その後は、身分を浪士とか書生に変じ、機を待つということになります。

 

 巻之一検討終わり。