文の練習 

文について練習しながら考えるためにブログを書きます。 書かれることの大半はフィクションです。

走り書き1

 

「社会と、気軽に繋がっている[ように思える]為の道具を断とうとしている。SNS・携帯・等々。モバイル、とは«何を»持ち運ぶことを可能にしているのか。連絡の取りやすさである。しかし、なぜ、連絡の取りやすさが価値を持つのか。間を持たせる為だろうか。[不安という言葉はあまりに多くのことを説明したような気にさせるので、気に入らない。精神に関わる形容詞の多くは、結局何も説明しない]

 余りにも[連絡は]頻繁に過ぎるように思う。人の行動や価値観は、目にし、耳にするものに多分に影響を受けるだろうが、余りにも交流し過ぎると、思いもしない考えの色がついてしまうものだ。それらを個性というのかもしれないが、私[…]
 適宜補足した。私が、携帯電話を手放すための自己正当化の文である。それは途中で切れている。続きはきっと、[はそんな個性は要らない]といった趣旨のものになっただろう。拗ねているだけといえばそうだが、拗ね者として自分の定義をしたい場合は、結局こういう論旨になるのだ。しかし、そんなこと以上に、もっと追求してみたいところは、連絡の簡便がどうして価値を持つのかということだ。そこへ、例によって取引あるいは所有の関係を以て説明することもできるだろう。流通の便宜は計られることが、人類の長らくの祈願であり、それは今でもどこかで祈られていることでもある。また、所有は、明確な権利関係で表現することが難しくなってきたから、色々の形をとって人の満足を目指す。

「はしり舞 蘭陵王は顔が優し過ぎたので、獣のお面を被った」
日本の伝統舞踊の授業で、気になったところをメモした。はしり舞そのものは、授業をよく聞いていなかったので、忘れたが、「戦争に際して、優顔を隠す為に獣の面を被る王様」の姿が、想像してみるとおもしろくてメモを取った。私が想像する蘭陵王の関わる戦争は、非常に肉感を伴っている。相手の顔が見える戦いだ。しかし、戦場に鏡は持ち込まぬし、相手から見てこちらが優顔だというのは、相手を油断させることはあっても、相手の力を勢いづかせることはなかろうと思う。一方、お面を被ったからといって、相手の士気をさげるかと言えば、所詮はお面に、過去の特別に恐ろしい記憶と結びつきでもしない限り、恐怖することはなかろう。そもそも、王は先陣切って敵に身を曝すことは少ない。では、なぜ、「優顔」を隠す面を被る必要があったのか。ひとつ想像してみるに、戦場も一種の劇場であったからと答えてみるのはどうか。王にとって戦場はいつも、味方からも含めて、見られる自分も考慮に入れて振る舞う場であったということだ。相手を殺すか自分が死ぬかという刃の触れ合う間際の、自意識の入り込む余地の無いやりとりは、どちらかといえば、末端の兵が担う仕事である。王の役割は、もっと劇的であらねばならない。そういう考えがあったのではないか。ところが、そんな王様に死と頻繁に接する、芸どころではない兵たちが素直に従ったのかという疑問が新たに生じる。お面を被ったふざけた王様の為に死ねるかということだ。もちろん、素直に従わない場合もあったろうし、中間管理職のような武将がよく働いたのかもしれない。

しかし、昔、儀礼と宗教と権威と個々の内面が重ねて結びついていた時には、お面を被った王が畏れ多く見えることもありえる話ではある。

 「戦うことを決意しさえすればよい」

前述のメモの裏に書かれている。これしか書いていないので、なんとも余白を無駄遣いした。どういう経緯で書いたかも覚えていない。やはり、固有名詞が登場せず、短いメモは、時が経てばただの言葉になってしまう。文としての、存在は希薄だ。つまり、何を受け継いで、何を引き渡したかったかが不明である。しかし、上に書いたことと結びつけてみると、生死を賭ける戦と、死なない演劇が等価な緊張関係を持ちえる場合の答えになるかもしれない。それは、上のメモに則って言えば、「戦うことを決意しさえすればよい」ということになる。別の言い方では、死から一番遠い王様が「死ぬ可能性を引き受ける」ことで死に最も近い兵士と対等の関係を得、命と義の取引が行われる。この議論は三島の武士道と芸道の論に色々を負っているので、いずれ引用し直して考えたい。さて、孫子の時代においても、まだ戦術が占われていたが、占いに失敗した演劇の主役はどうなったであろうか。恐らく、つまり負けた王達は戦場では死なずとも、死に待たれていたに違いない。打ち首や切腹、ギロチンの可能性は常に王の演劇に緊張感を持たせる舞台装置であり、彼らを無数の死に曝された魂と取引を担保する証書だったかもしれない。