文の練習 

文について練習しながら考えるためにブログを書きます。 書かれることの大半はフィクションです。

「文」 一、

 

「文」

 

 

 一、

 文について、はじめに、何度でも立ち向かわねばならず、また出来る限り誠実であろうと思う問題について記す。誰にも要請されていないのに、文を書くとはどういうことか。あるいは、誰にも要請されていないのに書かねばならない文とはどういうものか。生まれ出ることを待っている文があるのだろうか。功利を説く文章は、文そのものは求められていないように見える。そういう文章は要約と翻訳に向いており、人に伝達することにもまた向いている。それらは誰かの何らかの為の手段として用いられるものである。だから、目的次第ではよく流通するだろう。もちろん、どのような文もそれ自体で自立することはない。ほんの僅かでも他者へ向かっていかない文など見向きもされない。流動性がなく、その時点では価値が無しと判じられても仕方ない。ということはやはり、文が誰にも要請されていない事態というのは稀であるといえる。それにも関わらず、要請はいつでも明瞭とは限らないし、要請を受けて書かれた文が要請にちょうどよく応えるとも限らず、まったく別の意図で書かれた文がとある要請にこれ以上無くうまく応える場合もある。では、このことは読み手に依存した、機会の問題を言うのであろうか。あらゆる文は、自らの意味や価値を余すこと無く救い取ってくれる読み手を待っているといえるだろうか。あるいは、書き手に依存した、意志の問題を言うのであろうか。意志が文として形を得るのを待っているのだろうか。書き手なしの文もまた、ほとんど存在し得ない。しかし、以上のことはどこまでいっても読み手や書き手の話であり、文が固有に抱える問題というものに関わっていない。文の固有の問題とは、つまり、これこれの文が生まれる原因が文そのものに依存している場合などのことを言う。いやはや、先に「どのような文も自立しない」とか「文は書き手なしには存在しない」と書いたばかりだから、滑稽な問いに見える。しかしこの問いは、特定の始めと終わりを持つ、文について言及しているわけではない。そういう文は、文章と呼ぶことにして文から区別したいとも思っている。文章においては、先に掲げたように、読み手と書き手が先行してしまうだろう。つまり、文章と人との関係は意思伝達とかテーマの読み込みの問題に比重が置かれるので、人が文章との関わり方について強い決定権をもつように見えるからだ。決定が意識に上っているかどうかは関係ない。ところが、文は人に先んじている。文があらゆる仕方で別の文に引き継がれてゆくとき、文はそれ自体に固有の運動原理を持っていると私は錯覚する。文が運動する、振動するように確信できる瞬間がある。読み手であろうが書き手であろうが、私の存在には関知せずに存在し得ている文というものが間違いなくあり、私はそれを眺めているに過ぎない、と思う瞬間がある。固有の文はそういう感覚をもたらす。実際には私が感動しているに過ぎないが、その感動の仕方というのが、文章によって表現された物語や人格、喜怒哀楽という全体的なもの、まとまりをもった対象に遭遇した時のものとは違う。それよりも、ここにもお前がいたか、というような文との対峙、もしくは再会によって得られる感慨である。せいぜい、文字によって支えられることしかできない脆弱な存在である文の素となるもの、つまり新たな文に引き継がれるべき前の文が、形姿を変えて、あるいはそのまま私の目の前にやってきたときにはえも言われぬ感慨を受ける。(文における継承が始まる前には、それはどんな姿をしていただろう?分かっているのは、今回、「文」として述べたことは映画の一瞬間であれ、日常の生活であれ当てはまるようだ。だから、文の形を取る前は、街角のタバコ屋の婆さんの、貧乏学生に小銭を負けてやる気遣いの形をとっていたかもしれない。)そのことは、書き付けられたものか、話された言葉であるかは、一時的には問われない。しかし、わたしはいつでもその文に向かいたいので、自ら書付けておくよう心がけ、わたしの知らない文を誰かが書き付けることを期待し、どこかで書き留められたものに出会すのを好むのである。